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リストカットについて

リストカットについて

「リストカット」:カッターなどで手首を切る自傷行為。太股など腕以外の場所を切ることも多い。

たとえばリストカットの傷跡などを見せられた時。私は当惑しましたが、その当惑の原因が何なのかは自分でもはっきりしませんでした。単純に「身体の傷跡」という意味で生理的な嫌悪感が生じたのは確かですが、そこに拒絶しきれないものが存在するようにも思いました。

もっとも、現在では、リストカット自体は、さほど珍しい行為ではないということを私は知っています。また、「自分の身体を痛めつけることによって自己確認する」という意味での自傷行為は、ほとんどの人が何らかの形で類似の体験をしている筈ですから、そういった意味でもリストカットは特別なものではないでしょう。私自身は手首を切ることは恐らくないですが、それは別の形態で病気だからであって、自傷行為と無縁だからではありません。恐らく、自傷行為と無縁な人間など存在しないのです。

たとえば、会社で徹夜して仕事を仕上げ、ふらふらになりながらも自己満足に浸っている人。 あるいは、試合に備えて、毎日激しいトレーニングをこなしているスポーツマン。彼らも、やっぱり自分を痛めつけている。そして、その痛みを目的達成・勝利の喜びに変えている。また、そのような苦しみに耐えなければ勝利を得ることは出来ないと考えている。

これら全ては「何かを犠牲にしなければ別の何かを得ることは出来ない」という発想、「去勢」の延長上にあります。「去勢」とは、簡単に言うと「母親とのファックを諦め父親の権威を受け入れることで社会的存在である『男』になる」ということです。と言っても、これだけでは納得は出来ないでしょうね。

例を挙げるなら、試験勉強などは典型的な「去勢」といえるでしょう。異性とのデート、気の置けない友人との酒を酌み交わしながらの語らい、クラブで無心になって踊ること、それら享楽的なものには眼もくれず、毎日机にしがみついて勉強する。「今の享楽」を犠牲にして「未来の喜び」を得ようとする。しかし、そうやって得る「未来の喜び」とは何ほどのものでしょうか。それは本当に「今、ここでの犠牲」と釣り合っているのでしょうか。問題は、「試験勉強によって何を得るか」ではなく、「何かを犠牲にしなければ何かを得ることは出来ないのだ」という思考です。そして、そのような元々根拠のない考えを、我々が何の疑問も抱かずに受け入れていることです。そのような諦念を、社会的試練の中で日々反復し確認していく。そうやって「大人」あるいは「社会人」となっていく。それが社会での自己の存在を確認する儀式、「去勢」です。苦痛と快感を交換しようとするそのような思考に根拠があるように見えるとしたら、また、試験勉強などというものが有意義に見えるとしたら、我々が、「現実」を受け入れた瞬間から日々「去勢」を実行し、そのような思考を追認しているからに過ぎません。この場合の根拠とは、実は後から作られたものです。「未来の喜び」に意味があるのではなく、「苦痛の反復」にこそ意味があります。それが生きるということです。自傷行為こそが我々の生の営みそのものなのです。

「何故リストカットするのか」などと考えても答は出ません。何故なら、そのような問いの立て方そのものが間違っているからです。実は、そのような疑問を支えている発想こそが「去勢」の追認なのです。つまり、「今、ここでの苦痛は未来の喜びにとって必要なのだ。だから自傷行為にだって何らかの必要性が、意義が存在する筈だ」という考えが、そのような問いの裏に存在するのです。繰り返しますが、リストカット(自傷行為)とは、「我々の生そのもの」です。我々はただ生きているのです。生は無目的です。もし生きることに何らかの目的が見出されたとしたら、そのような目的とは、生の無意味さに耐えられなくなったために捏造されたものでしかありません。また、もう少し分かりやすい例を挙げてみましょう。

禁煙などは典型的な去勢の一種と言えます。人は健康のために禁煙を実行します。しかし、本当に煙草をやめることで健康が得られるのか、かなり不確かな話です。それでも人は禁煙を実行します。何度失敗しても懲りずに挑戦し続けます。ここにも、「今、ここ」での享楽(喫煙)を諦め、それを未来の喜び(健康)に変えるという、既に述べた例と全く同じ発想が見られます。禁煙中の人間は、「この一週間吸っていない」、「一月続いた」、「半年もやめられた。この禁煙は成功だ」と、どれだけ禁煙が続いているかを自慢したがります。ここでは、真に重要なのは禁煙によって得られたと思われる健康よりも、禁煙の苦しさそのものなのです。苦しみは大きければ大きいほど価値がある。従って、人は健康のためにあえて苦しみに耐えて禁煙するのではありません。それが苦しいからこそ人は禁煙に価値を認め、実行するのです。

しかし、禁煙したり、スポーツ選手が過酷な練習に耐えるのはそれなりに周囲の賞賛・賛同を得るでしょうが、リストカットを誉める人はいませんね。それは家族や友人を苦しめる。 従って、自分をも苦しめる。ということは、彼らは、アイデンティティを確認する作業が自己の存在を揺るがしてしまうという二律背反にあります。彼らは、夏場など腕の傷をどうやって隠すか必死で悩みますが、同時に、Web Site ではそのリストカットの跡を公開していたりする。ジオシティーズなどでは発見されたら即座に削除されてしまうでしょうが、腕の傷をデジカメで撮って載せている人というのは案外多いのです。いったい彼らは腕の傷を見せたいのでしょうか、見せたくないのでしょうか。恐らく、ここに彼らのジレンマの一端があります。彼らは、見て欲しいけど、見て欲しくないのです。本当は、自傷する自分、そのような自分そのものを認めて欲しいと思っているのです。何故なら、それこそが自分だから。 流れる血の暖かさに現実を感じる。腕の痛みを快感に変え、陶酔する。それこそが「自分」でなくてなんでしょう。だから、リストカットをやめることは困難です。リストカットを禁ずるのは「自分が自分であるのをやめよ」「生きるな」と言っているのと同じだからです。

しかし、腕の傷を他人に見せても期待するような反応は決して返ってこないでしょう。自傷は「社会的」には忌避される行為ですから。リストカットと無縁な人間は「手首を切るなんて馬鹿らしい」と言います。そう、確かに馬鹿らしいのです。自分で自分を傷付けて何が楽しいのでしょう。しかし、人は馬鹿らしいことだけに執着するのです。自分の行為の、そして自分の生の無意味さに気付きたくないがために、人は必死で試験勉強や禁煙などといった馬鹿らしい行為に意味があるかのように騒ぎ立てるのです。苦しんでいる自分を見て欲しい、そして認めて欲しいのです。リストカットした人間は、周囲の無理解に耐えられず、その傷を隠します。つまり、「本当の自分」を隠蔽します。誰も認めてくれない。だから、自分の存在がどこにあるのか分からない。「紛れもない自分自身」は宙に浮いてしまう。そして彼らは「生きまい」とします。いくら身体を傷付け、時にはオーバードーズしたとしても、彼らは「死にたい」のではない。「自己の存在を消したい」のです。人は、自分を痛めつけるのすら、他人の承認の基に行わなければならないのですね。だから、大多数の人間はスポーツや禁煙などの「公認された自傷行為」に走るのです。

すると、やはり私はリストカットを認めなければならないのでしょうか。黙ってそれを見ている他ないのでしょうか。話を聞くだけなら、私は別に咎めはしないと思います。既に述べたように、身体を痛めつけて自己確認するのは、あらゆる人間に普遍的なものだからです。それは、スポーツマンの自傷行為である厳しいトレーニングと変わりありません。リストカットには、直接死に結びつかないとしても危険が伴いますが、極限的なトレーニングも十分危険です。もし、あらゆるリストカットを禁止するなら、全てのスポーツも禁止すべきです。それらは本質的には同じ行為なのですから。しかし、目の前で腕を切ったら、あるいは切ろうとしたら、私は即座に止めると思います。また、止めなければならないと思っています。 それだけは決めています。

以前、N.Aさんのサイトからリンクされている場所に置かれている章を読んだ時、その思いは強まりました。それは、Nさんが前に付き合っていた方のサイトでした。多分、本人を直接知りもしない私のような人間に触れられるのを喜びはしないでしょうが、公開されたものだから言及しても構わないでしょう。ただし、以下に述べることはあくまで推測であることはお断りしておきます。さて、その元カレは、こう書いていました。Nさんとのセックスが終わった後、彼女は、彼の目の前で手首を切ったそうです。普通の人なら驚くところですが、苦しみをある程度共有し、かつリストカットくらいでは簡単には死なないということを熟知していた彼はそれを止めなかったようです。また、そのような彼の前で腕を切るというのは、やむにやまれずというより、ある種の虚勢・当てつけのような意味合いがあるようにも思います。それを感じたのか、彼はただ見ていた。その時、彼がリストカットを止めなかった理由についてどんな理屈を並べていたかは忘れてしまったのですが、その直後に二人は別れたという話を読んで「それでは別れるのも当然だ。仕方ない」と私は思いました。目の前で手首を切っている人を止めるのは理屈ではない、愛情の問題です。たとえ、それがわざとらしい当てつけであったとしても。彼女は、その時「適切なアドバイス」とか「正しい答」などというものを求めていたのではないでしょう。だから、そのような場では、どんな正論も空しい。それ以前にも別れの兆候はあったのでしょうし、リストカットも、それら齟齬の一つ、単なるきっかけに過ぎなかったのかもしれません。しかし、目の前での自傷行為は止めなければ、と私は思います。それが出来なかった二人は別れる他なかったのでしょう。

勿論、では、だからといって私が彼女の苦しみを引き受けて、受け止めてあげられるのかというと、それは分かりません。はっきり言って無理ではないか、という気がします。多分、本当の苦しさを打ち明けられたら私は逃げ出してしまう。ただ聞いてあげることすら出来るかどうか怪しいものです。何をどのように理解し、どう行動すればいいのか、それは私には全く分かりません。「リストカットしたい」と打ち明けられた時、どうすればいいのか。はっきりとした答えは、少なくとも今の私にはありません。その場その場で対処していく他ない、としか言えないのです。

それにしても、以上の話とは別に憧れるようなリストカットもあります。以前ある本で、バスタブに裸で浸かり腕を切って自殺した人の話を読んだ時、とても羨ましく思ったのです。彼は、足を抱いて背中を丸め、血と湯を混ぜ合わせて死んでいったそうです。とても安らかに。つまり、彼は胎児となり母親の子宮に還っていったのです。彼が安らかだったのは、羊水と自分の血を溶け合わせ一体となっていたからでしょう。私もそんな風に死にたいのです。 どこにいるのか分からない本当の母親の胎内へ還り生を終わらせたいのです。そのようなリストカットは一種の憧れです。

付記「『リストカットシンドローム』を読んで」

『リストカットシンドローム』の著者、ロブ@大月氏は次のように書いている。

リストカットは「依存症」の一つとしてとらえられることがある。依存症は「やめなきゃいけない」という強迫観念にとらわれている間はまず治らないし、一時的に収まってもまた短期間で再発してしまうものだ。

だとすると、依存症には基本的に「完治する」という概念がない、といった方が正しいのかも知れない。元アルコール依存症だった男性が、50年ぶりに一口ビールを飲んだだけで再発したという例もある。

ならば、リストカットを『克服すべきもの』と考えるのではなく、『共に生きていくもの』と考え『いざとなったらリストカットしてもいい』と思うことによって心の余裕ができ、逆にリストカットを卒業する方向に近づけるのではないだろうか。

ロブ@大月氏は言う。「リストカットに依存している人間は、リストカットを否定するのではなく、むしろそれと共生した方がいいのだ」と。私のテキストを読んでいただけた方なら容易に分かるように、ロブ@大月氏の考え方は暗黙の内に「去勢」を追認している。人は自傷と共に生きる。自傷には「基本的に『完治する』という概念がない」。そして、私が述べたように「去勢の追認」こそが我々の生なのだ。私のテキストと氏の著作がほぼ同じことを述べているのがお分かりいただけるだろう。しかし、彼の著作は「実践的」だが「論理的」ではない。上の引用を読めば誰でも感じるように、彼の口振りにはどこかすっきりしないものがある。「リストカットを卒業するためにリストカットを認める」とはどういうことだろうか。リストカットはしていい、何故なら、それが最終的にはリストカットをやめられる方策だからだ…。ここには解決出来ていないものが存在する。

興味深いことに、このような考えは、いわゆる「ドクター・キリコ事件」、ネット上で自殺用の青酸カリを売買して話題になった事件で、ドクター・キリコの持論だった「常に自殺用の青酸カリを持ち歩ければ、いつでも自殺出来るという心の余裕が生まれてかえって自殺を防止出来る」という考えと全く同じである。

「自殺を防ぐために自殺用の青酸カリを持ち歩く」

「リストカットを防ぐためにリストカットを認める」

どちらも、ただちには承伏しがたい考えだ。

このように、「生きるため」という理由で自傷行為を認めると、ロブ@大月氏ほどに自傷行為に理解のある人間ですら矛盾にぶち当たってしまうのだ(そういう意味では私のテキストだって明らかに論旨が混乱している)。しかし、彼がその矛盾に行き着いたのは、彼が非論理的な人間だからではなく、彼が誠実だからだ。確かに自傷行為は矛盾している。どんなに自傷行為を肯定する人間でも、その矛盾を解消出来ない。それは、上で述べたように、自傷行為が我々の生そのものが持つ矛盾の正確な反映だからである。リストカットは「生きるため」にあるのではない。「生きるため」とは、何かが何かの代償としてしか存在価値を認められないという「去勢」の発想の追認に過ぎない。そうではない。リストカットこそが生そのものなのだ。リストカットは何かのためにあるのではない。リストカットはそれ自身の快感故に存在している。「気持ちいいから切る」、それの何が悪い? そして、我々は誰かのために生きているのではない。我々はただ生きている。しかし、この社会では人がその人自身として存在するのは許されていない。誰かのために存在しているのでなければ人は人として認めてもらえない。快感が快感そのものとして存在するのも許されていない。だから我々は自傷しつつ、その自傷行為を人に認めてもらおうとやっきになるのだ。結果として自傷行為(去勢)とは人が人として認められるための一種の儀式となっている。そして、だからこそロブ@大月氏はリストカットを社会的に認知させようとしてこの本を書いたのである。繰り返すが、この本は去勢の追認だ。

以上が現時点での私の認識である。しかし、私のテキストを「ニヒリスティックなだけで誰も救うことが出来ない」という理由で否定しようとするなら極めて遺憾に思う。では、あなたにはいったい誰が救えるというのだろう。あなたが本当に自分には他人を救う能力や資格があると考えているなら、まずその傲慢さを反省すべきではないだろうか。我々は認識においてはもっとニヒリスティックであるべきだ。「実践的」であろうとして認識を曲げてはならない。実践は中途半端な認識からスタートさせるべきではない。私に足りないのは更なるニヒリズムだ。徹底した認識だ。そもそも、私は誰も救う気はない。患者を救うのは医者やカウンセラー、あるいは宗教家の仕事だ。私が自傷患者に対して「ああしろこうしろ」と実践的なアドバイスを始めたらおかしなものだ。私が述べられるのは「認識」のみである。「実践編」を書くのは私の任ではない。だから私は認識だけを述べたのだし、その点においては出来るだけ誠実であろうとした。

とはいえ、だからといって私が「実践」と無縁な人間だと考えるなら、それは大きな間違いである。私だって苦悩を抱えながら日々生活している人間の一人だ。私は私の人生において常に実践的である。ただ、それをここには書いていないだけのことだ。これだけは断言出来る。私のことを真剣に理解しようと努力してくれた人間など、生まれてから今まで、ただの一人もいなかった。だから私は、たった一人で、ドタバタ・あたふたとみっともなく認識と実践を同時進行させる他ない。私は誰にも愛されていないがどうにか生きている。

それとも、あなたに私の苦悩が救えるのだろうか。

(2000.12.12)

「追記の追記」

ロブ氏は「病名」と「症状」を厳密に区別しているが、下の文章ではあえてその区別を無視している。以下のテキストの論旨内ではその区別は無意味だからである。

付記「『リストカットシンドローム』を読んで」は、酔った勢いで書いて、そのまま深夜にアップしたものです。後で少し後悔しました。すぐその日のうちに感想をアップすると言うのは少々乱暴な行動でした。

ところで、言い忘れたのですが、読んでいる間中、『リストカットシンドローム』という書名に引っかかるものを感じていました。心の病を社会的に認知しようとさせる場合、最近多いのが「病気」という点を強調するパターンですね。異性になりたいと憧れる人を「彼は変態じゃない。れっきとした病気なんだ。病気だから仕方ないんだ」と言ったり。自傷行為もそうです。「リストカット症候群」という括りでそれを認めさせようとする。まさにロブさんの本のタイトル通り。南条あやも、日記の中で医師から「神経症」と診断されてガッカリしています。本当はリストカット症候群と呼ばれたかったんですね。傷付いたアイデンティティを病名によって回復したいという気持ちも分からないではありません。彼女の場合、そのアイデンティティにどうしてもリストカットを組み込みたかったのでしょう。

しかし、自傷を病気だと強調すると自傷行為の本質はかえって見えなくなってしまいます。『リストカットシンドローム』は、とてもいい本ですがタイトルは失敗だと思います。内容と合っていません。本書の中でインタビューされている女性達の話はとても「症候群」で括れる内容ではない。それぞれ違う事情があり、違う人格があり、違う生き方がある。なのにそれを「症候群」として理解してしまっていいんでしょうか。自傷行為の本質を隠すことで自傷行為が認められるのは真の認知なんでしょうか。3章での名越院長との対話はとても優れた考察ですが、その結論は「患者本人と全人格的に関わらないとほとんど何も理解出来ない」というものです。しかし、「病名」は世間一般の人間にとっては、その患者との人格的なつながりを拒絶する格好の言い訳となり、患者本人にとっては、その病名を人格に組み込むことによって事態の把握を避ける手段となり得ます。実際、南条は「リストカットシンドローム」という言葉に憧れていたのです。

ある人をリストカット症候群と呼ぶ。あるいは鬱病と呼ぶ。あるいはボーダーラインと呼ぶ。しかし、そのような場合の病名とは、実際にはその人を理解するためにあるのではなく、その人を理解したくないがためのレッテル張りである場合がほとんどですね。医師でない人間に病名なんてほとんど意味のないものです。別に精神医学を学んだ訳ではないんですから。なのに人はそれを尋ねたがる。そして病名を聞くとその人を理解したような気になる。精神科医がどれだけいい加減であるかも知らず、三分診療で精神疾患の診断など本来不可能であることも知らずに。「彼は鬱病なんだ。そうだったんだ」しかし、その時「鬱病」という病名は、その人間が「得体の知れない気違いではなかった」という安心感をもたらす以上のものではありません。

でも、苦しんでいる人間が病気に逃げ込みつつ、真の自分を病名の裏側に隠蔽して、それで少しでも気が楽になるなら、それを簡単に否定も出来ません。何故なら、私は人を救えませんし、救う気もありませんから。もっとも、私を救ってくれようとする人間も一人もいないのですから、他人からその点を非難されるいわれはありません。手っ取り早く救われたかったら今一生でも読んでいればいいのです。しかし、私はあの程度のちゃちな認識では救われはしません。

私はリストカットを症候群として語るのは拒否します。が、そう呼ばれたい人達がいるならそれも仕方ありません。

ところで、ここまで書いてきて、私がこうやって熱くなるのはロブさんに嫉妬しているんだとやっと気付きました。女の子達に囲まれてモテモテ、鼻の下を伸ばしているロブさんに。著者を除けば『リストカットシンドローム』に男性は一人しか登場しません。「酔った勢い」とは、つまりそういうことです。もっともロブさんは「僕は鼻の下なんて伸ばしていません」と言うかも知れません。いや、別に伸ばしたっていいんですよ。それを非難しているのではありません。モテるのは別に悪いことではありませんから。無論、ロブさんはライターの使命として彼女達に会ったのです。それには様々な苦労が伴ったのです。そんなことは私にも分かっています。この社会では「会いたいから」という理由だけで複数の女性と会うような行為は許されていません。彼はライターとしてそうしたのです。

誰かが誰かのためにあり、何かが何かのためにある。我々に許されているのはそのような存在の仕方だけです。去勢の追認です。

(2000.12.13)

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初出公開:2000.4.11 最終更新:2000.12.13
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